錯覚する脳

『錯覚する脳』を読んだ。前野隆司さんの著作である。

錯覚する脳: 「おいしい」も「痛い」も幻想だった (ちくま文庫)

錯覚する脳: 「おいしい」も「痛い」も幻想だった (ちくま文庫)

何とも刺激的な題名だ。
本著では、心はイリュージョンであることを解いている。
普通の感覚では、心は独立した存在と思われているが、前野さんの主張によれば、心は五感が生み出したイリュージョンであるとしている。
この様な見解には反対される方もいるかもしれないが、本著を読むと、心はイリュージョンかもしれないと思えてくる。

本著の第二章では、五感が生み出すイリュージョンについて書かれている。
この章は抜群に面白い。
普段何気なく感じている"五感"というものを冷静にとらえ直してくれる。
例えば、痛みも触覚から脳が生み出したイリュージョンなのだ。皮膚で感知されるのは、物理的な圧迫しかない。痛い、と感じるのは脳の中である。でも痛みは圧迫された皮膚で感じている様に認識される。
聴覚についても、耳は空気の振動を検出しているだけなのに、話す言葉は、話し手の口から聞こえてくる。これは、あたかも音源が話し手の口にあるかの様に、脳が作り出したイリュージョンなのだ。

心は、五感の感覚を脳が都合よく整理しなおしたものともいえる。
それは、時間の感覚も都合よく整理しなおすことにも及んでいるのだ。
私たちは、ものを見た瞬間とそのものを認識した時間が同時だと思っているが、脳が五感を通してものを認識していることを考えると、脳は時間も都合のいい様に整理しなおしているのだ。
例えば、目の前にあるりんごを林檎と認識するには、視覚から入った情報からりんごの形やりんごの色をいったん認識する必要がある。この認識の後に、記憶から林檎をひっぱり出し、今みているりんごを林檎と認識する。
りんごを見た瞬間と林檎を認識した時間にはタイムラグが存在するが、実際われわれは時間のずれを感じることもなく、りんごを見た瞬間に林檎と認識している。

先日のブログでも脳に関する本や知覚に関した本を紹介したのだが、最近感じるのは、人間の認識の中心は確かに脳にあるのだが、脳のみを解明するアプローチではなくて、五感も含めたトータル的なアプローチをしてこそ、初めて人間を理解することができるのではないだろうか。
人間の認識や思考は五感の働きを通してなさている。脳は、五感からの情報の最終地点であるにすぎない。
五感からは、われわれが認識しているレベル以上の情報が、脳に伝達されているが、脳は都合の良いレベルまでしか意識させていないのだ。
おそらく、無意識下には、膨大な五感情報が蓄積されいる。
脳は、五感情報の膨大な蓄積場なのではないだろうか。