知覚の正体

古賀一男氏の"知覚の正体"を読んだ。
副題は、"どこまでが知覚でどこまでが創造か" である。

知覚の正体---どこまでが知覚でどこからが創造か (河出ブックス)

知覚の正体---どこまでが知覚でどこからが創造か (河出ブックス)

本著では、何気なく過ごしている生活の中で、知覚というものが私達の認識にどう関わっているのかを見つめ直させてくれる。
全編を通して語られるのは、知覚とは、外部情報がフィルターを通して脳に伝わっていくということである。
脳は、外部情報をそのまま認識しているわけでは無く、脳の認識に都合のいい様に外部情報を加工して認識しているのである。

知覚とは、外部情報を脳がそのままに認識する仕組みでは無く、外部情報が脳に到達するまでにフィルタリングされた結果である。
フィルタリングは、省略もあるし、逆に増幅もあるのだ。

人間の知覚の驚異は、第四章の『とぎすまされた職人の知覚』で語られている。
人間が手の触覚で認識できる表面の荒さはどの程度あるのだろうか。驚くことなかれ、一〜三マイクロメータの荒さを分別できるのである。
触覚とは、意外と人間の認識に影響を及ぼしていることが良くわかる。
手触りが違う、と良く聞くが、これは真実なのである。手の触覚をバカにしてはいけないのだ。

第五章の『ブラインド・スポットと伝統芸術の奇妙な関係』は、日本文化論にも触れている。
日本の生け花と欧米のフラワーアレンジを比較し、生け花の創造性に迫っている。
未生流で花が生けられた時の何もない空間を含む全体を、中枢の側は過去の経験から空虚な空間に意味を持たせようとする、つまり中枢の創作や創造が働きだす余地が生まれるのである。』
これは、なるほどと思わせる。
何も無いことに対し、そこに意味を持たせようとする人間の行為があるわけだ。ただ、意味を持たせる行為は、当然のことながら、本人の過去の経験やセンスによるわけであり、空間を埋める行為がその人の力量をも現すわけである。
空とは、何もないとういことよりも、その人を表現させる行為でもあるのだ。
そう考えると、日本の文化とは、非常に人間の知覚の本質を突いていると思われる。

第七章の『奥行きを知覚しているという確信はどこから来るのか』で著者が提案する実験が面白い。
人間は両眼で物を見るわけであるが、中枢では全ての情報を利用しているわけではない。失われた情報もあるのだ。
知覚で利用されるのは、両眼で重複した部分だけである。
本文では、ピカソのデッサンとの比較実験を提唱しているが、普通の美大生が描いたデッサンとの比較でもいいだろう。
写真は、単眼の視覚を表現するが、人間の手によるデッサンは、複眼の視覚により表現されたものだ。単眼の視覚と複眼の視覚とは具体的にどの様に異なってくるのだろうか。この実験は非常に興味深いものがある。

さて、全編を通して感じるのは、人間は五感を通して知覚を形成する存在なのだ、ということだ。
知覚は結局脳で処理されるわであるが、脳に到達する前に、多くのフィルタリングを通した情報をもとに知覚をするのである。
脳を解き明かせば人間の全てがわかるのでは無く、五感を含めた存在として人間を捉える必要があるのだ。
五感を含めた存在として人間を捉えなければ、真の人間理解はできないであろう。