TVの終わり、そして始まり。(第6回)

このお題も第6回目となった。ちょっと、というかだいぶ間が空いてしまったが。

Appleも次のTVを生み出すことに苦労している。
アイザックソン氏の"ジョブス伝"なかで、ジョブスは"TVを打ち壊す"と語ったものの、まだ具体的なアクションに移せていないようだ。
意外と、TVを打ち壊すことは難しいのかもしれない。

おそらく、ジョブスが語った"TVを打ち壊す"というのは、TVの操作性を打ち壊すことを言っていたのではないだろうか。
これはすでに答えが見えている。iPhone4Sで登場したSiriが多くの反響を呼んでいる様に、TVを操作するのは従来のリモコンではなく、iPhoneiPadの端末である。
iPhoneiPadを利用したタッチインターフェイスや、Siriの様な音声認識がリモコンにとって変わるのだ。
ある意味で、"TVぶち壊して"いる。ただ、本当に"TVをぶち壊せる"のか。

このお題で6回目をむかえるが、TVとは何ぞやと考える上での着目すべき点を整理してみよう。

■TVの何に魅かれるのか
これは、第二回で自分の体験も踏まえ書いた内容に尽きる。
次の3点だ。
・娯楽コンテンツ
・生放送
・異種体験

娯楽コテンツは、ただ観ることに満足感を覚えるシチュエーションである。
生放送は、今の時間を共有していることの喜び、である。今の時間は、老若男女、貧富の差がなく、誰でも享受できるシチュエーションである。まあ、時間は万人平等であるということだ。
異種体験は、結局セレンディピティにつながる。求める情報の提供と合わせて、ゆらぎのある情報の享受にある。

もう一度これをまとめてみる。
・娯楽コンテンツ ➡ 受動的
・生放送 ➡ 共有
・異種体験 ➡ セレンディピティ

TVまたは、人々が従来のメディアに求めているのは、この3点である。

■UIの変革
これは、第3回目で書いた。
結局、今までのUIはテキストベースのコントロールであった。
これが、Siriに代表されるような、音声認識のUIに変わる。
同時に、テキストベースのリモコンではなくて、タッチインターフェイス音声認識を中心としたUIに変わる。

■スクリーンサイズ
これは、第4回目で書いた。
あらゆる場所に"世界につながる窓"が存在し始めた。

過去の、世界につながる窓の代表はTVの画面であった。
今や、世界につながる窓はいたるところに存在する。
Smart phoneの窓、Tabletの窓、PCの窓、そしてTVの窓。
それぞれの窓のスクリーンサイズは異なる。
スクリーンサイズによって、受けて側の関わり方も変わる。

スクリーンサイズを意識した戦略がないと駄目ということだ。
と、言いつつも、スクリーンサイズサイズに応じた、ユーザの意識も十分考慮する必要があろう。
おそらくスクリーンサイズが拡大するにつれ、ユーザ側の意識は拡散する。スクリーンサイズが大きくなるにつれ、ユーザは受動的になっていくということだ。

■検索と共有(同時性、同胞性)、そして新たな仕掛け
これは、第5回目で書いた。

これは、コンテンツに対する新たな関わり方を目指すものだ。
第5回目では、ガラポンTVを取り上げてみた。これは従来提供されているコンテンツに、たまたま提供されている情報(=テロップ)をうまく利用したものだ。

逆にいうと、従来のコンテンツにも仕掛けが必要なのだ。
コンテンツ側にも検索できる仕組みやソーシャル化を前提てとした"仕掛け"を仕込んでおく必要がある。
または、コンテンツに仕掛けを仕込むことができるテクノロジーが必要だ。

共有化を考える上で大事なのは、おそらく、観ていた、とういう過去形の共有感から、今観ている、というもっとリアルな同時性のある共有感であろう。
このリアルな共有感を実現できることが、従来のTVにない、新たな価値な
のである。
さらに付け加えるのであれば、"今"にリコメンドできること、であろう。
それと、デジタル化に隠された意味である。コンテンツに隠蔽されたテキストの存在である。デジタル化は、隠蔽されたテキストを活用することができるのである。

■配信方式
TVとインターネットを考える際に、それぞれの生れの素姓の違いを考慮する必要があるだろう。
TVは、そもそもブロードキャストである。これは、ノンインタラクティブであり、一方的なコンテンツ(=情報)の提供形態である。一対多の配信方式であり、これは結局配信側が権威をもつということつながる。
インターネットはどうかと言うと、全く対極ををなす。双方向であり、インタラクティブである。そして、個人が権威を持つこともできる。

TVとインターネットは、全く性質を異とするものなのだ。
この、異とするのもが融合するのか、はたまた一方が一方を飲み込むのか。

■課金方式
もしかしたら、これが最も重要なのかもしれない。
メディア(=コンテンツ)の 流通ルートと課金はセットになっている。
現在の課金の方式には、次の二つがある。
・コンテンツに対する厳密な課金。
・広告による、コンテンツの無料化。
実を言うと、二番目の課金方式は、意外とあいまいだ。本来は、広告の提示により、認知度アップ狙っている。ただ、広告放送時に、本当に誰がどの様な状態で見ているのか分からない。
とにかく、多数の人々が見ているという前提で企業が広告料金を払っているわけだ。
よくよく考えると、非常にあいまいな方式でもある。

おそらく次の広告ビジネスのモデルは、個人の情報提供による広告モデルであろう。
個人の情報提供によって、ターゲットとなる個人が、いま何を欲しているのか、これからなにを欲するのか、にもとづき一番フィットする広告を配信するのだ。
それは、4つのスクリーンにいつでも登場するであろう。

■ メディアに対する関わり方
人々のメディアに対する関わり方がどう変化していくのかも、見据えないといけない。
メディアの見方の変化もあるし(例えば、コンテンツの保有からコンテンツのストリーミングによる擬似保有)、メディアに対する関わり方(例えばソーシャルテレビのような、コンテンツの共有化)も変わってくる。