マクルーハン理論

今回は、”マクルーハン理論”の紹介です。
マクルーハンの主張を理解する入門書としては、読みやすいです。といっても、おいらも入門者ですが。

マクルーハン理論 (平凡社ライブラリー)

マクルーハン理論 (平凡社ライブラリー)

冒頭、『彼の書いた本は読者に高度の参加を要求する。彼の本は論理的・分析的ではなくて詩的・直感的である。』とあります。確かにそうですね。マクルーハンの文章は、彼が何を言わんとしているのか、受け手側が深く考える必要があります。
マクルーハンは、もともと英文学者でした。それが何故にメディア論に関して一世を風靡するまでになったのでしょうか。解説を読むと、米国の若者の新しいカルチャーにカルチャーショックを受けて、それを理解するために専門であった中世文学の手法を用いたのですが、その成果が認めらたことによって新しい分野の挑戦が始まったようです。
マクルーハンが目指したものは、『言語を中心としたメディアと人間の認識を核に、その結果生じる科学と芸術を同一のものと捉え、ひいては経済、政治、文化などの各分野を横断して社会全般を統一的に論じる、という革新的なものだった。』のです。
本著は、2部構成になっています。1部はマクルーハンの論文、2部はマクルーハンが主催した”Explorations”という研究雑誌に掲載された多数の研究者の論文から選出されたものです。

1部に掲載されている論文を読むと、やはり当時革新的なメディアであったテレビについて多く語られています。特に映画との対比が多く語られています。2部にも同様な論文があります。
また、人間の認識について、”聴覚”や”触覚”そして”空間認識”についても語られており、ひいては先史時代の人類の空間認識についても言及されています。非常に興味深い内容となっいます。
本著の最後は、鈴木大拙氏の論文で締めくくらており、締めとしてはいいですね。
さて、それでは本文を覗いてみましょう。以下はおいらが気になった文章を本文から抜き出して感想を述べていますが、おそらく読む人によって、これらの論文から影響を受ける箇所は異なると思います。それだけ内容濃いいということです。

1部 マクルーハニズム
・メディアの文法
マクルーハンの分析するアプローチとして、『一つのメディアを通じて、他のメディアを調べる方法をとれば効果はあがる。たとえば電子メディアの観点から印刷メディアをみるとか、印刷メディアを通じてテレビを分析するとかといったふうに。』と書いています。この分析アプローチは、他にも応用が効きそうです。

テレビと映画の違いについて、
『テレビが写真や映画とちがう点は、映像が向こうからやってくる光によって構成されることである。』そして、『光が向こうからやってくるコミュニケーション方式は、内部からの全面的イルミネーションを呼び出すもので、文字形式による分析的形式とはひどくちがう。』
と書いています。多くの現代の人は、生まれたときからおそらくテレビが生活のなかに存在していたので、ここまで突き詰めて考えることはなかったのではないでしょうか。この”光によって構成されること”と”光が向こうからやってくる”という捉え方は独特ですね。この辺の考えかたは、”テレビとはなにか”の論文でも繰り返されます。
論文の最後は、
『メディアの文法を理解しなければ、現在私たちが生きている世界をそのまま認識することは望み得ない。』
としており、”メディアの文法”とは、インターネットを含めて、自分たちも今の”メディアの文法”を考えていかなくてはならないな、と感じました。

・聴覚的空間
ここでは、聴覚の重要性が語られます。
『視覚には限界があり、一定の方向があり、いつも視界は半分しか見えないように制約されているのに、聴覚は限界のない球内で発生するどんな音にも絶えず身構え、あらゆるののを包む。』
としています。聴覚は、360度あらゆる方向の音を感じとれます。それに比べ視覚は感知する方向に制限があります。聴覚はより空間的な認知であり、より身体的な認知なのではないでしょうか。
現代のメディアは視覚優先なので、聴覚認知が空間的に優れていることを忘れがちです。
聴覚の呪術性も次にように語っています。
『詩人は長年にわたり、魔術的な聴覚的強調によって視覚的イメージを呼び起こし、言葉を呪文のように使ってきた。』
そして、
『ラジオがこの聴覚の魔術を呼び戻した。』
としています。最近はラジオを聴かなくなりましたが、たとえばラジオで語られるドラマの方が、意外と想像力をかきたててくれたりもします。小説を朗読してくれるオーディオブックが、意外と売れ続けているのも頷けます。

・言語に与えた印刷物の影響
この論文では、印刷物が言葉をどのように変えていってしまったのかが書かれています。
『印刷術以前には、言葉の定義という観念自体、意味をもたなかった。』そのため、『中世にあっては作者はそれぞれ自分の考えの展開するままに、自由に言葉を規定してよいのだと考えていた』とあります。この言葉に対する考え方の自由さは、現代人には想像ができません。なぜそうなってしまったかというと、
『印刷術登場が意味したことは、必要なだけ大勢の人びとに視覚的に提示される画一的なテキスト、文字、辞書、ということであった。』からです。印刷して視覚化された言葉が、厳密な定義を強要せざるをえなかった、ということなのです。
その結果、
『書字法で明確になりえないものは、急速に姿を消してしまった。』のであり、『文字以前の言葉、そして聴覚的な言葉の同所同時的な秩序には当然のことであった複雑微妙な時間と気持ちの諸関係は、植字工のアセンブリー・ラインによって速やかに刈りとられてしまうのである。』となってしまいました。
中世以前の人が、どのように言葉を操っていたのか非常に興味がわきます。世界のどこかに、この中世時代の言葉を伝承している地域とかないのでしょか。

・テレビとは何か
ラジオとテレビの出現に対し、
『われわれの子供たちはエレクトロニクス的に統合された世界に ーあらゆることが同時に生起する世界にー 育っているのである。』
と書いています。この速報性・同時性は、マクルーハンのいた時代よりもさらに高まっています。瞬間性といってもいいかも知れません。それにオープン性が加わります。
テレビと映画を比較して、
『映画の場合、われわれは座ってスクリーンを眺める。われわれがカメラの目なのである。テレビではわれわれがスクリーンなのである。そこで東洋の絵画におけるように、われわれが消失点(バニシング・ポイント)なのである。絵がわれわれの内側に入ってくるのである。映画ではわれわれが外に出て世界に向かうのである。テレビはわれわれの内側に向かうのである。』
としています。テレビを非常に内面的に迫るメディアであるとしています。この辺は、映画も内面的に迫る作品もあるので、この意見には全面的に賛成できなのですが、”テレビではわれわれがスクリーンなのである”といった捉え方は、テレビとは何かを、もう一歩深く考えていく場合、ユニークな視点となるのではないでしょうか。

2部 コミュニケーションの新し探求
・新しい言語
新聞について、
『時系列ないし線性でなく、同時性を高める。一つの全体的情勢から抽出された各項目は、原因結果の連続性にしたがって配置されず、なまの経験として全体として提示される。』
としています。
この文章を読んだ後で新聞を読んでいたのですが、(おいらは新聞をとっていません。ニュースの情報源は全てインターネットからです。連休中に田舎に帰ったときに久し振りに新聞を読みました。)畳の上にあぐらを書いて、新聞を全面に広げて読むと、上の指摘がよくわかります。そこでふと思ったのですが、新聞を全面広げて読む行為は、ちょうどネットサーフィンをしている感覚に似ています。気になる記事があちこちに散在しています。興味ある記事を追いかけます。気になった広告にも目を通します。まさに、ネットサーフィンと同じですね。
インターネットのたどったは発展を思い起こすと、ちょうど新聞がたどった発展に類似しています。最初はテキストのみしかありませんでした。次に写真印刷(インターネットでは画像)が登場します。インターネットでは次に動画が登場します。こう考えると、インターネットの発展は、新聞の発展をたどったことになります。そしていまや、その情報を表現するパワーは新聞を越えています。新聞は、インターネットに包含されてしまう運命にあることが分かります。

さて本論に戻ります。
ここでも、映画とテレビについて言及されています。
『映画とテレビでは、距離とアングルがたえず変わる。』そして、『ついに観客はいやおうなしにシーンにひっぱりこまれ、その一部になる。観客でなくなる。』のです。続いて、バラスの言葉が引用されています。『われわれの目はカメラにあり、登場人物の凝視と同一になるからである。』
他の論文でもそうなのですが、この”人間の視点”がどこにあるのかを西洋の方は結構気にしているようです。

本論とはあまり関係ないのですが、
『本を読むということは、他の人が私たちのために考えてくれることである。私たちはその人の精神的プロセスを繰り返すにすぎない』
といった箇所があります。
これは、読書好きには耳が痛いですね。かなり極端な意見ですし、読書のジャンルによっても異なってくるでしょう。そうはいっても、ちょっとドッキとします。ではどうすればいいか。読んだ中から、新たな価値や思考を自分に生み出すプロセスを踏むことが大事なのではないでしょうか。

ここでも、印刷された言語の限界が語られています、
『印刷文は話し言葉が生みだす印象を生みだすことができず、話し言葉が伝える考えを伝えることができないからである。』

・先史芸術の空間概念
先史時代の人間の空間概念が、現代人とどのくらい異なっているのかを論じています。
『エジプトやシュメール時代以来ー 人は見るものすべてを垂直なもの、水平なもので見る。』とし、それに比べ『旧石器時代の人間は事物や空間の見方がわれられの慣れている方法とはちがうということである。』としています。
『芸術遺産の小さな物体からでも、先史時代には面や方向をまっく自由に使っていたことがわかる。』し、洞窟内の岩の表面に描かれた絵が、『柔らかく横から充てた光 ー側灯ー だけがもとの強さを活かしうる。』場合もある。
洞窟の天井に描かれた絵は、『動物はいわば引力の影響を受けずに空中に浮いているからである。』

・動く目
ここでは、インドにあるファテープル・シクリという今や世界遺産になっている建築物が紹介されています。
ファテープル・シクリの空間配置は、『そこにはどこにも固定した中心というものがない。』としています。
この、”どこにも固定した中心というものがない建築物”というのには、想像力がかきたてられますね。実際に行ったことがなので詳しいことは分かりませんが、どこにいてもここが建物の中心にいるような感覚をどのように作りだしたのでしょうか。非常に興味深々です。

ここでも、西洋文化の”視点”が言及されています。
西洋文化の『視覚の科学がもたらしたものは、線的なパースペクティブである。単一の「消点」(パニシング・ポイント)、単一の目 ー私の目、私の強力な目ー による風景の把握なのである。』

・口頭と文字のコミュニケーション
口頭によるコミュニケーションが、極めて人間の情動に訴えかけるものであったことが書かれています。
話し言葉、あるいはうたわれる言葉によって動かされる情動的な力というものが非常に強いために、言葉によって遠くにいる敵の勇気もくじけるし、死者をよみがえさせて、小さな動物をしげみのに中にスパイのように走らせることもできるのだ』と書かれています。
さらに、
『父親の静かな声が部族の記憶を共鳴によって引き出すのである。』
としています。この箇所が”ことば”の発生を表しているのではないかと、ふと思いました。会社の中でも、何故か言葉がよく響く人がいますよね。この発生音と対象物を同一にする認識行為は、この言葉がよく響く人(みんなが何故か共鳴してしまう人)を、みんなが聞き入り真似た結果ではないのでしょうか。そうすることによって共通の言葉(共通の発音)が生まれます。

・読むことと書くこと
ここでは、言葉の重要性が語られます。
『聞き手が文字を読める人ならば、彼は視覚的な「本」のイメージをさらに「book」という印刷された単語に置き換えるにちがいない。』と、文字を知った人間は最終的に文字で思考することを指摘しています。
『話しをしたり、字を書いたりするときも、アイデアは筋肉運動知覚をともなった聴覚的なイメージを呼び起こし、それがただちに視覚的な単語のイメージに変形される。』のです。
『考えるということは厳密な意味でいえば、言葉なしでは不可能である。』としています。
ことばについては最近興味があり、関連した書物の感想をブログに書き連ねていますが、この”言葉なしで人間は思考ができるのか”といった問には、まだ完全な答えがありません。自分の思考を考えると、確かに”ことば”で思考せざるを得ないのですが、もしかしたら”ことば”以外で思考することの訓練を積んだら、”ことば”なしで思考することができるかもしれません。
残念ながら現代人は”ことば”に拘束されているので、”ことば”の呪縛から逃れることができません。

・コミュニケーション革命
印刷メディアと電子メディア(当時のテレビ、ラジオ)の比較をしているのですが、これに現在のメディアであるインターネットや電子ブックを加えたらどうなるでしょうか。
本文では、7項目を比較しています。まず、ちょっと整理してみます。
①能力の必要性
 読む能力(印刷メディア)⇔ 訓練なし(当時の電子メデイア)
②体験する単位
 個人単位 ⇔ 大勢
③単位時間に流される情報量
 少量 ⇔ 大量
④伝播速度
 遅い ⇔ 早い
⑤情報のストック
 ストック ⇔ 一過性
⑥流通コスト 
 制作費安価/消費者に負担大 ⇔制作費莫大/視聴者負担小 
⑦情報発信の対象
 特定の小集団 ⇔ 大多数

この7項目にインターネットや電子ブックを当てはめてみると、その特異性(強力なパワーを秘めたものでること)がわかる。
インターネットは、印刷メディアと当時の電子メディアをちょうど融合したものであり、その流通コストの安さと膨大な流通情報量が抜きん出ているのだ。
いまさらながら、インターネットはメディア革命といってもいいかもしれない。いまさらいってもしょうがないかもしれないが、この7項目で比較しても、その革命的なパワーを理解していただけると思う。

・仏教における象徴主義
この鈴木大拙氏の論文は非常に印象的です。
あの芭蕉の俳句をもとに、東洋的な、禅的な考え方とは何かを解き明かしてくれます。
芭蕉の有名な俳句、”古池や蛙とび込む水の音”を引用して話が進みます。
『「や」の存在が作品全体の理解へのカギなのである。これがあることによってこの俳句は、古池にとび込む蛙と、それによって生じた水の音の客観的叙述ではなくなっているのである。』と述べています。
『すなわち、彼が古池であり、古池が彼であること、そして、この同一性にいかなる価値があるにせよその価値は、その同一性の事実そのもの意外ではありえないことを芭蕉に意識させたのである。』とし、『それは完全な同一性であり、仏教の言葉でいえば空の状態、無我の状態なのである。』そして、『その古池は全宇宙を内に含み、全宇宙はその古池に確実に収められているのである。』としています。
仏教とは、『いわば徹底的にリアリスティックなのである。つまりそれは何らかの特定の対象を他から区別して象徴化することはしないのである。』と結論付けいます。この辺は、日本人なのでよく分かります。

それにしても驚いたのは、日本語の深さです。”や”があるのとないのとでは、表現に大きな差がでてきます。
芭蕉の句を、”や”ではなく”に”にしてみます。
”古池に蛙とび込む水の音”となりますが、何か水の音も”ぽちゃん”といった貧相な音しかきこえません。芭蕉の視点も、蛙が古池にとび込むのをただ単に見つめているだけです。
それでは、”や”に戻してみます。
”古池や蛙とび込む水の音”。確かに、芭蕉の視点が消えます。”古池”と芭蕉が一体になっていることを感じとれますね。芭蕉の視点が消失することによって、そこにあるのは、”古池”であり、”蛙”であり、”水の音”だけです。
それにしても、”や”の存在の重要性を指摘した鈴木大拙氏もすごいお方です。