『メディア論』を読む(1)

『メディア論』を読む、第ゼロ回に続く第1回目である。

今回は、”ペーパーバック版への序文”についてである。なにい〜!序文だって、早く本論に入れ。と言う方も多いと思うが、またこの序文の内容も読み砕くだけの内容があるのだ。たった6ページの序文であるが、あまりにも内容が凝縮されている。第ゼロ回目でちょろっと書いたが、”マクルーハンとは、ものの本質を端的に切り取ることに長けていた”ということがよくわかるのである。
序文の冒頭で、”ホット”と”クール”について書かれた箇所があるが、その中で突然東洋の芸術が引き合いにだされる。そして、東洋と西洋の芸術の違いを、次のように端的に言い切てしまう。
『東洋の芸術と詩歌とは、視覚によって組織された西洋世界で使われる連結によってではなく、空隙によって相手の関与性を生み出す。東洋の芸術で見るものがいっさいの連結を自身で補充してやらなければならないからである。』
以前のブログで、勅使河原茜さんの書かれた”いけばな ーー出会いと心をかたちにする”を紹介しましたが、この本の中に、茜さんのおじいさんである蒼風の言葉が引用されています。西洋にも生花に似たフラワーアレンジメントとういうものがあるのですが、フラワーアレンジメントと違い、『いけばなはスキ間の芸術でもある』と。そのスキ間もただの隙間ではありません。『このスキ間は空虚な充実、空虚の緊張、空虚の迫力であって、これがいけばなの中にたくさんある。』のです。
どうです。マクルーハンは東洋の芸術を”空隙によって相手の関与性を生み出す”と、その東洋芸術のエッセンスを見事に抜き出してくれています。すべてを表現し尽くしてしまう西洋芸術に対し、スキ間のある東洋芸術。スキ間は、ただの隙間ではなく、相手の関与性を生み出す隙間です。空隙の中に、相手(=鑑賞者)を引き込み、相手がその隙間を補完することによって、相手と作品との間に緊張感を生み出すのです。

さて、序文には芸術に関する言及がさらにあります。
『未来の社会的および技術的発展を予測する力が芸術にあることは、昔から認められていた。』
エズラ・パウンドが芸術家を「種族のアンテナ」と呼んだ。』
マクルーハンは、芸術を自己表現の一種ではなく、予言能力があるものとしてとらえていたようです。これは確かにいえます。予言能力というより、アートは、今の時代の潜在的感覚を表現することができるからです。それは、ことばをもって表現できない、皮膚的感覚を表現しているのです。
マクルーハンの言葉をもう少し引用します。
『われわれの増殖してやまない技術が次々と新しい環境全体を生みだしてくるにつれ、芸術こそが環境そのものを知覚する手段を提供してくれる』のです。
序文には『芸術』という言葉が頻繁に出てきます。マクルーハンを理解するためには、『芸術』的観点に立つことも必要と考えられます。

ところで、この序文でマクルーハンは、エズラ・パウンドの言葉を引用していますが、エズラ・パウンドとはいかなる人物であったのか、ちょっと気になりウェブでいろいろと検索してみました。簡単な略歴はウィキペディアにも記載されていますが、詩人でありながら多くの人に思想的影響を与えたようです。エズラ・パウンドは日本にも興味があり、特に能について強く惹かれていたようです。
マクルーハンの東洋の芸術に関する理解も、もしかしたらエズラ・パウンドの影響があったのかもしれません。

<続く>


メディア論―人間の拡張の諸相

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