アンドロイドは電気羊の夢を見るか?

アンドロイドは電気羊の夢を見るか?”を読んだ。いわずもがな、フィリップ・K・ディックの傑作である。

突然フィリップ・K・ディックの作品を読みたくなったのは、先日のブログでも紹介した、東浩紀氏の”サイバースペースはなぜそう呼ばれるのか+”の中で、フィリップ・K・ディックの作品が取り上げられていたからだ。
ご存知の通り、”アンドロイドは電気羊の夢を見るか?”は、あの”ブレードランナー”の原作である。映画のイメージからすると、いかにも近未来をモチーフとしたSF作品と捉えられてしまうが、フィリップ・K・ディックは、おそらく近未来を描くことを目的としたのではなく、人間とは一体何なのか、といった問いを小説形式で求めていたのであろう。

小説の冒頭は、ムードオルガンという脳に刺激を与えて人間の感情をコントロールする機器を利用して目覚めるシーンがある。”ペンフィールド”と称される調整機能で人間の脳に刺激を与える装置だ。”ペンフィールド”とは、脳地図を作成した”ペンフィールド”から命名されている。ムードオルガンは、チャンネルを合わせると、おのぞみの気分にさせてくれるという機械だ。これは、薬物乱用に陥っていた自らの体験からの発想であろう。この脳に刺激を与えて、現実世界ではなく仮想世界に浸るシーンが何度も描かれている。
共感ボックスと称する装置も登場する。これは、”ウィルバー・マーサ”という教祖的な人物と、精神的心霊的な同一視をともなった肉体的融合を体験させてくれる装置だ。
ディックの作品が未来の世界を描いているのも関わらず、読む者を不安定な気分にさせるのは、人間の精神世界を垣間見せるような描写によるものだろう。ちょうど夢の世界の一部を、現実世界と融合させてしまったような気分にさせてしまうのだ。

さて、”アンドロイドは電気羊の夢を見るか?”は、アンドロイドと人間は何が違うのか、それでは人間とは何なのか、を問いかける作品となっている。
作品では、アンドロイドを見極める方法として、感情移入測定検査というものをあげている。
この感情移入測定検査について、主人公のリックが思いを巡らす描写があるが、これは作者の言葉と捉えてもいいであろう。本文からちょっと抜粋してみる。
『感情移入はどうやら人間社会だけに存在するらしい。ひとつには、感情移入能力が完全な集団本能を必要とするからだろうか。』と書いている。これは結構ポイントを突いている。
ただ、この感情移入の特徴がもろ刃の剣であることも指摘している。
『だれかが歓びを経験すれば、ほかの全員もその歓びの断片を共有できる。だが、もしだれかが苦しみを経験すれば、ほかの全員もやはりその苦しみの影から逃れられない。ヒトのような群居動物は、それによって一段高い生存因子を獲得する。』
この描写はディックの人間観を現しているようだ。

アンドロイドは電気羊の夢を見るか?”で語られるジレンマは、人間の”感情移入”によってもたらされる。そう、主人公のリックはある時から奇妙な思いにとりつかれるのだ。感情移入を持たないアンドロイドに、人間であるが故に感情移入してしまうのだ。

ディックの作品では、アイデンティティーについて触れられる作品が多い。”アンドロイドは電気羊の夢を見るか?”もその例外ではない。
オペラ歌手として人間世界に紛れ込んだアンドロイドのルーバ・ラフトと対峙したリックは、『彼女はきっと自分を人間だと思いこんでいるんだ』と判断する。自分は人間であると信じているアンドロイドは、人間なのか、アンドロイドなのか。
主人公のリックも自分が人間なのかアンドロイドなのかと疑念をもち、自ら感情移入測定検査を試みる描写がある。突然自分のアイデンティティーに疑念をもつことの恐怖が浮かび上がってくる。この描写は、アイデンティティーを否定されたり、喪失してしまった場合の恐怖を垣間見せてくれる。

主人公のリックは、6人のアンドロイドを仕留めるのであるが、最後は空虚な思いに囚われてしまう。作品ではアンドロイドが人間に積極的に危害を加えるシーンはでてこない。ルーバ・ラフトはオペラ歌手として人間に歓びを与えていたし、プリス・ストラットンは、”特殊者”であるイジドアに心の慰めを与えてくれた。リックは、ただアンドロイドということだけで、アンドロイドを追い、仕留めたに過ぎない。
リックは果たして何と戦っていたのだろうか?