ゼロの概念を習得したオウム

Dr.Ireane M. Pepperberg(ペパーバーグ博士)の”アレックスと私”の紹介です。
良書です。ヨウム(オウム科)のアレックスとの最後の別れの場面は、不覚にも涙してしまいました。

アレックスと私

アレックスと私

おいらが、何故この本を手にとったかというと、たまたま、WiredVisionの記事ゼロの概念を習得した「天才」オウムが目に止まったからだ。この記事の表題である、”ゼロの概念”を習得することは、人類の歴史上においても最近のことなのである。西洋文明においては、”ゼロの概念”が広まったのは、何と16世紀(ちょうどルネサンスの時期)なのである。そのような”ゼロの概念”を自ら習得してしまったオウムがいるなんて、どうなっているんだ、といった驚きに襲われたのだ。
それと、最近”ことば”に興味があり、人間はいかにして”ことば”を習得したのだろうかうと思いを目ぐらせていたこともあり、ヨウムが言葉を習得する過程がわかれば、人間が言葉を習得した過程も分かるのではないかと、この本を手にした次第である。

この本を読むまでは、人間が他の動物と異なる点は、”ことば”を使うことであるといった考えに囚われていた。人間は他の動物と異なり、”ことば”をどの様な進化の過程で手に入れたのか、といった疑問がつきまとっていたのだが、この考えが全く間違えであったことをこの本で気付かされた。
”ことば”を習得することは、人間の特権ではなく、人間以外の多くの動物が本来もっている能力なのである。何故人間だけが”ことば”を持っているのか、といった理解ではなく、”ことば”の習得能力は大なり小なり多くの動物に生来あり、たまたま人間はその能力に長けた条件がそろったに過ぎないのである。
人間だけが特別ではない、といった考えに基づくと、”ことば”の発祥が非常にすんなりと理解される。動物とは、本来コミュニケーションをすることが生存に有利となっているのだ。これは非常に理解しやすい。コミュニケーションをすることにより、その種、その群れが外敵から守られる可能性が高くなるからだ。危険を察知したことを伝える手段として、コミュニケーションすることが生来の能力としてあるのだ。そしてこのコミュニケーションとは何か、といった問の答えは、コミュニケーションするために共感する能力が潜在的に存在している、ということだ。ポイントは、共感する能力、共鳴する脳回路の存在にある。”ことば”が発声する音の振動が、いったい何を表すのか(危険を表しているのか)を脳回路が共鳴し感知するのである。おそらくコミュニケーションの本質は、そこにある。

さて、本著の紹介にもどります。
本著は、女性の研究者としての差別や研究内容がヨウムの言語能力習得といった、どの領域に関する研究なのか分類できないことによる理解の壁(大学の研究分野は細分化されており、学際的な研究はなかなか正規の研究として受け入れられることが容易ではない。)も自叙伝的なエピソードとして語られています。
全編に、主人公のアレックスに対するペパーバーグ博士の愛情があふれています。ヨウムがいかにして言語を習得するのかといった側面は、研究書的な書き方ではなく、具体的なエピソードをもとに至極さらっと書かれていますが、注意して読むと非常に重要なポイントが書かれています。

まずは、この本の主人公であるアレックスが、いかなる能力をもっていたのかをちょっとビデオで観て下さい。

このビデオには、”モデル/ライバル法”による学習の方法も示されています。


それでは、気になった文章を抜き出して、感想を述べていきます。

『私は直感的に自分の進みたい道がそこなのだと確信した。人生の中で、「絶対に正しい」と確信できる瞬間がまれにあるが、私にとってはこのときがまさにそうだった。』との一文があります。この文章は非常に力強いですね。この一文からもペパーバーグ博士が、動物は言葉を話せるのだ、それを証明してやる、といった、強い信念を感じます。

アレックスに言葉を覚えさせる方法として、モデル/ライバル法を取り入れています。これは、『「社会的なやり取り」を通して学習が起きるという考えにもとづいた方法』です。言葉を覚えることは、つまり学習ですが、それは一人で勝手に習得できるものではなく、「社会的なやり取り」を通じてこそ、学習が最大の効果を発揮するといいことです。これは非常にうなずけることです。

『いくつかの単語を発することができることと、意味のあるコミュニケーションをすることは別問題である。アレックスの訓練の第一歩は、どんな音でも良いので、まずは発声することと物体が互いに関連していることに気づかせることだった。』
むっ、この文書のくだりは、あの”奇跡の人”の映画の感動的なシーンを思い出させてくれます。ヘレン・ケラーは、ものに名前があることに気づいた瞬間、歓喜の渦に飲み込まれます。


アレックスが言葉を理解している場面の描写がとことろどころ出てきます。この描写を読むと、アレックスは本当に言葉を理解していたに違いないと思わせてくれます。
アレックスは、”ノー”という概念も理解していたようです。嫌だということが伝わっていないと、「raakkkk」といった威嚇する声を発します。そして”ノー”とうい発声も憶えてしまします。
造語を発声したのではないかといった描写があり、これには驚きます。造語とは、個々の言葉とその意味を一端自分の中で理解しミックスさせる、創造的な過程が含まれます。
「アップル」という言葉をペパーバーグ博士が覚えさせようとしますが、アレックスはかたくなに「バネリー」と言い続けます。数日たって知り合いの言語学者にこのことを話したら、もしかしたら造語かも知れない、といったヒントを得ます。ペパーバーグ博士は、「バネリー」とは「banana」と「cherry」の造語で「banerry」なのではないかと気づきます。「アップル」の味が「バナナ」に似ていて、「アップル」は「チェリー」の大きなったものであるとアレックスが理解し、この造語を発したのかもしれない、と推測します。
やはり、圧巻は、アレックスが”ゼロの概念”を理解していることをペパーバーグ博士にみせつける場面です。違う色のブロックをトレーに複数個載せます。そして、そこに組み合わせの存在しない問をアレックスに質問します。
アレックスは答えます。”none(=ない)”

『アレックスは人の感情状態を理解する共感能力がとても高く、私に気分が落ち込んでいるときには敏感に察してくれた』とあります。
言語能力を高めるためには、共感しあう能力が重要であるということですね。アレックスは、この共感する能力に長けていたので、人間の言葉も理解することができたのでしょう。

言葉を話すのは、人間だけであるという誤った考えは、『紀元前4世紀にアリストテレスが考案した自然観が、実質的には現代まで受け継がれて』しまった結果なのです。『”精神”の序列によって全ての生物と無生物を階層的に分類』した結果なのです。『あらゆるものを”高等”から”下等”までの一本のモノサシの上に並べることができるとする自然観』によるものです。アレックスは、この考えが間違っていることを、モノサシを作り出した人間に気づかせてくれます。そして、ペパーバーグ博士は、『自然界におけるすべての存在の間には相互依存性があるという意味での”ひとつのまとまり”なのだ』という自然観にたどり着きます。

ちょっと長い感想文となってしまいました。ただ、言えることは、この本を読むと、大きく世界観が変わることに間違いはありません。