トクヴィル 現代へのまなざし

トクヴィル 現代へのまなざし”を読んだ。富永茂樹氏の著作である。非常に示唆に富んだ本である。新書版で読めることに、深く出版社及び著作者に感謝したい気分でいっぱいです。

トクヴィル 現代へのまなざし (岩波新書)

トクヴィル 現代へのまなざし (岩波新書)

さて、”トクヴィル”という名前を知る人は少ないのではないでしょうか。おいらも、”トクヴィル”の名前を知ったのは、内田樹さんの著作である”街場のアメリカ論”を読んででした。(この”街場のアメリカ論”は傑作です。)この著作のなかで、”アメリカ理解のほとんどはトクヴィルに学んだものと言って過言ではない”、と内田樹さん述べています。内田樹さんも敬服する人物が”トクヴィル”なのです。
そんな縁もあり、この本を手にしました。
トクヴィルの著作である、”アメリカのデモクラシー”と”アンシャン・レジームフランス革命”の2冊の本を通じて、トクヴィルの思想の理解と”デモクラシー”社会の未来を論じています。

この本を読むと、”デモクラシー”の行き着く先が決して幸福なのかどうか分かりません。ただその限界を理解して新しい個人の精神を形作る必要がありそうです。
”デモクラシー”とは、単純にいうと個々人に対する自由と平等を国家が保障した社会です。この自由と平等の二つがクセモノです。
平等な社会なので、だれもが幸福をつかむチャンスを与えれます。ただチャンスをつかむのは極僅かな人々だけです。その挫折から、移動(職を変える)を繰り返しているのが”アメリカ”であると述べています。この挫折感が”デモクラシー”社会のおける”奇妙な憂鬱”の淵源となっています。

また、自由と平等のどちらも両立できればいいのですが、どちらかを選択するとなると、人間は平等を選択します。自由と平等について、本文ではトクヴィルの”アメリカのデモクラシー”から引用してます。自由と平等の本質をうまく捉えているので、ここでも引用してみます。
”「自由の中に平等を求め、それが得られないと、隷属の中にもそれを求める。貧困も隷従も野蛮も耐えるであろうが、アリストクラシー(不平等)には我慢ができない」”
本文では、この引用文に続き次のように書かれています。
”「隷従のなかでの自由」は論理的にはありえないが、「隷従のなかでの平等」は生まれてきます。”
この先には”「民主的な専制」”を生む可能性を秘めています。
本文では、
”自由は獲得する必要があり、たえず求める運動でしかないのに対し、平等への愛着は平等それ自体とは別の所で大きな力を発揮する”
と、続けて書かれています。”平等”というのは甘い言葉ですが、この言葉のみに惑わされてはいけないとうことですね。
”デモクラシー”により失なわれる傾向にあるものとして”中間の領域”があげられています。本文では”部分”と表現されています。”第4章 部分の消失”の最後は次の文で締めくくられています。
”デモクラシーが全般的に進展するところでは部分が姿を消すことで分裂は修復されるかもしれないけれども、画一的な世界がどこまでも広がっていくのでした。”
そして”形式”の消失も進むのです。本文中で引用されているトクヴィルの言葉を引用します。
”平等の「絶えざる運動の中で世代間の絆は弛緩あるいは断絶し、誰もが簡単に祖先の考えの跡を見失い、これを気にかけなくなる。」「このような精神傾向はやがて形式の無視に導き、彼らはこれを自分と真理をとを隔てる無益で不便な被膜とみなすようになる」”
ということは、”形式”の消失は”デモクラシー”の負の面と捉えられます。そうなると”形式”の復権が”デモクラシー”を補うキーワードですね。日本には、まだまだ昔からの伝統文化が残されています。この伝統文化や伝統的な生活様式とかを、再発掘することが、重要になるかもしれません。
最終章は、一転して日本の状況が述べられています。デモクラシーに向かい始めた明治期から現代が語られています。
この章の最後に現在のネット社会について述べられた箇所があるので引用します。
”私たちはケータイを手にするかコンピュータの端末につながることで、瞬時に、広い範囲で交流が可能ではあるのはたしかですが、それでも結局のところ「埃」として、孤独なむき出し状態で世界に散在したままです。そこからどんな人間の結合関係が生じてくるのか、さだかではありません。”
と、かなりマイナーな表現で書かれています。
おいらが思うに、インターネット文化をうまく利用すれば、この”「埃」”の存在を脱せると考えています。”デモクラシー”の進展とともに”中間領域”が消失したとも述べられていますが、先日のブログでも紹介した内田樹さんの”街場のメディア論”の中で触れられていた”ミドルメディア”がこれを解決してくれるのではないかと考えています。

”デモクラシー”の負の側面を認識し、それを補う活動や視線をもって生きることが大事なのではないでしょうか。