脳と言葉に関する二冊の本

脳と言葉に関する二冊の本を読んだ。
酒井邦嘉氏の"言語の脳科学"と正高信夫氏の"子供はことばを体で覚える"である。
それぞれ、刺激に満ちた本であった。
二冊の本は、2002年と2001年に刊行されており、今から10年ほど前の刊行物である。

"言語の脳科学"は、副題の通り、脳がどの様にして言語を生み出すかを、ノーム・チョムスキー氏の言語の習得は人間の生得的なものである、という説に賛同し、脳が言語理解にどの様に作用しているのかを脳科学という側面から様々なアプローチを紹介している。
"子どもはことばをからだで覚える"は、行動認知科学の側面から、ことばはどの様にして習得されるのかを、解き明かそうとしている。

それぞれ、アプローチの仕方は異なるが、人間の言語習得は、生得的であるという観点は同じだ。

酒井氏の主張は、第一章の最後に書かれている言葉に集約されている。
『言語とは、心の一部として人間に備わった生得的な能力であって、文法規則の一定の順序に従って言語要素(音声・手話・文字など)を並べることで意味を表現し伝達できるシステムである。』
人間が生得的なのは、この言葉の中の、"文法規則"を理解することであるとしている。
この説に立てば、プラトンの問題が一挙に解決されるのだ。
プラトンの問題とは次の様なものだ。
『言語の発達過程にある幼児が耳にする言葉は、多くの言い間違いや不完全な分を含んでおり、限りある言語データしか与えられていない。それにもかかわらず、どうしてほとんど無限に近い文を発話したり解釈したりできるよになるのだろうか。』
ノーム・チョムスキー氏の主張する、人間は言葉の文法を形成することが生得的なものである、という説を取れば、プラトンの問題が一挙に解決される。
言葉の理解、言葉のつながりの意味付け、文法の理解が生得的なものであるとなれば、プラトンの言う、限りある言語データから無限に近い文を発話したり解釈したりすることが可能となるのだ。

正高氏の主張は、最後の章にの一文に現われている。
『どのよなことばでさえ、実際には、「からだ的思考」の介在なしには習得不可能なのだ。』
正孝氏の本を読むと、人間の言語習得は、からだの五感を全て使って習得されると思えてならない。また、からだの動的表現により言語の繋がりの意味も理解されるのだと、強く感じる。
チョムスキー氏の言うところの"文法の規則"を"動的表現の規則"と置き換えてもいいのではないか。

言葉の発生について言及する時に、意識されていない大前提がある。
『人間は、最大限にコミュニケーションとろうとする生き物である』ということだ。
生まれたての赤ちゃんは、あらゆる手段を使って、外部とコミュニケーションを取ろうとしているのだ。それは、生存の為に絶対に必要な事だからだ。

コミュニケーションの取り方は、言葉以外にもある。
正高氏の著作では、手による喃語の発生例をあげている。
この例からすると、手の動作によるコミュニケーションもあかちゃんは可能だと言う事だ。
この例をもっと拡大解釈すると、五感を通じれば、いかなるコミュニケーションも取れるということだ。
音声も、耳からだけではなく、からだ表面全体から伝わってくる振動をコミュニケーションのツールとしもいいわけだ。

さて、言語は多様性を帯びている。これは当然のことで、言語自体は、対象物を特定する表現であるから、この表現は場所により異なってくるであろう。対象物を特定する表現は、任意につくりだすことができるからだ。
対象物を特定する表現である言語(ここでは、単語)を、あかちゃんはどの様にして認識できるのだろうか。
正高氏の著作の第二章で紹介されている実験結果が興味深い。
親が話すことばの連続から、どの様にして単語が切り出されていくのかを推測している。
話し言葉は連続している様であるが、息継ぎや、ことばのトーンの変化がある。単純化すると連続したはなし言葉は、協和音と不協和音で構成されている。あかちゃんは、不協和音で区切られる音声の中から協和音を切り出し、言葉(単語)として認識していくのだ。

ちょっと長文となってしまったが、言語の発生と脳の関わりに興味がある方には、お勧めの本である。

子どもはことばをからだで覚える―メロディから意味の世界へ (中公新書)

子どもはことばをからだで覚える―メロディから意味の世界へ (中公新書)