サイバースペースはなぜそう呼ばれるか

東浩紀氏の本を始めて読んだ。”サイバースペースはなぜそう呼ばれるか+”である。

本著は、3部構成となっている。まずは、1997年から2000年にかけて発表された”サイバースペースはなぜそう呼ばれるか”の10回分の発表論文。1996年と2000年に発表された3つの論考。1999年と2000年に行われた3つの対談である。
どれも知的興奮に導いてくれる内容のものである。
サイバースペースはなぜそう呼ばれるか”で引用されるラカンデリダの論理は、おいらはいままで全く触れたことがなく、何のことやらわからない箇所もあるが、日常的な思考とは異なる世界の読み方に触れることにより、知的興奮を呼び覚ましてくれるのだ。
サイバースペースはなぜそう呼ばれるか”の前半部分にはフィリップ・K・ディックの作品がしばしば引用されており、ディックの作品解説として読んでも楽しめる。
おいらも、いっとき、ディックの作品を読みあさったことがあった。主要な作品はほとんど読んだのであるが、今となっては作品の内容もすっかり忘れてしまっている。ただ、この”サイバースペースはなぜそう呼ばれるか”で語られるディックの作品解説を読んだら、なにやら無性にディックがまた読みたくなってしまったのだ。

3つの対談の中で、最後の法月綸太郎氏との対談では、あのミステリーの巨人であるエラリー・クイーンの作品論が展開されており、こちらもミステリー好きのおいらには、とっても楽しめて読めました。
この対談の中で、法月氏本格ミステリの本質をうまくついた箇所があります。ちょっと抜き出してみます。
『裏返せばミステリの読者というのは、解決が最後に訪れるというのはわかっているのに、その解決にいたるまでの時間を遅延させ、解決への期待をやたらと膨らませることで楽しむという、一種マゾヒスティックな読書体験から快楽を得ている』と言っています。
うーーーん、言い得て妙である。犯人があばかれる最後の詰を読むまでの緊張感の高まりと、犯人があばかれた瞬間のカタルシスの開放は、まさに快楽ですね。

さて、本著を読んで気になった文を、いくつかピックアップしてみます。

『ブレンダ・ローレルが1980年台に予見していたように、GUIを備えたコンピュータは、「見ない箱」ではなく、インターフェイスという舞台でユーザと「ともに演技する」パートナーとみなされ』、そして『スクリーンがすなわちコンピュータだと』認識されることになります。おお!この究極が、タブレットPCですね。もはやスクリーンもインターフェイスも一体化しています。

コンピュータに対する、二つのビジョンがあり、『生産性の高まった消費社会、情報化によって再生される工業化社会』と『無政府主義的なユートピア、国家や官僚に制のような集中化されたシステムなしで紡がれる、パーソナル化されたコミュニケーション機械のネットワーク』です。前者のビジョンは、まさにPCの時代です。後者はモバイルの時代ですね。今は、後者の時代に突入しているといえます。

ポストモダン化とは、象徴界が弱くなり、かつて象徴界が果たしていたさまざまなメカニズムが機能不全に陥る現象のことである』及び、『ポストモダンとは、「視線」が機能不全に陥った世界』であり、『空間はスーパーフラットとなり、目はアニメ化された幽霊的な記号となる』とあるのですが、ちょっとピンときませんでした。浮世絵が話題として取り上げられているのですが、浮世絵って結構スーパフラットな視点で描かれています。西洋画のような遠近表現も無視されており、おそれらく見て感じたままの視点や角度から絵が描写されています。そしてその色彩の彩りの美しさ。あのゴッホが浮世絵に取り憑かれたのも頷けます。