ことばと思考

”ことば”がどうも気になって、ことばに関する本を読んだので紹介します。
何で”ことば”が気になったのかというと、先のブログで”火の賜物”を紹介したのだが、”火”というものが人類に”料理”することをもたらし、それが脳の進化の一助(食物の消化のためのエネルギー消費が減った分、脳にエネルギーを供給することができ、脳の発達を促した)ともなった。さらに、”料理”をすることが、女性と男性の社会的役割にも影響を及ぼした。とまあ、”料理”というものが人類に大きな影響を及ぼしたことは間違いない。さらに”料理”による食材の変化(食材をより柔らかく加工できる)により、口蓋が変化したと推測でき、口蓋の変化(微妙な発音能力の獲得)が、”ことば”を生み出すことに貢献しているのではないか、とおいらは考えた。
”ことば”が発生したシチュエーションをちょっと想像してみる。
おそらく”ことば”以前として、生きるために必要な感情の発露や群れとして生きるための情報の伝達として叫びや声の発声があったことは容易に想像がつく。ただ、単純な叫びや声の発声のみでは多くのパターンが存在しないので、伝達できる情報に限度が発生してしまう。例えば、”あー”、”うー”、”えー”では3パターンしかないが、これを組み合わせることによって、無数のパターンを生み出すことができる。”あうー”、”あえー”、”うえー”、”うあー”、”ええうー”・・・等々。
相違した叫びや声の発声による組み合わせで、伝達できる情報のパターンを増やしていくことができる。それでは、何故人間だけが”ことば”を獲得できたのか?これは、上で述べたように、口蓋の変化により微妙な発音表現能力を獲得し、発声に多くのパターンをもたせることができたからだ(と思われる)。

それでは、”ことば”というものが、人間の思考にどのような影響を及ぼしているのか、その問に対し書かれたのが今回紹介する、今井むつみ著、”ことばと思考”である。

ことばと思考 (岩波新書)

ことばと思考 (岩波新書)

本著を読んでいくと、まず最初にことばの多様性に気付かされる。
本文での紹介例で、容器の名前によるカテゴリー分けがある。容器に対する意味付けが、英語と中国語では全くことなることが分かる。
英語は容器の機能面でカテゴリー分けされており、中国語は容器の素材によってカテゴリー分けされている。
”持つ”ことを意味する”ことば”も日本語と中国語ではことなる。中国語の方が、”持つ”ことを表現する”ことば”の種類が断然多い。日本語では区分けしていな”持つ”ことの形態も中国語では区分けされて表現される。
「入れる」、「置く」、「はめる」といった動作を表す”ことば”を英語と日本語を比較してみても、”英語は表面で支えるか包含か、という観点でシンプルに分類している”のに対し、”日本語は、モノとその到着地点が、ぴったりとフィットした関係なのかルーズな関係なのか、到着点の一部でモノを支えるのか、モノが上から下へ移動するのか、下から上へ移動するのか”などの多くの基準で表現を変えている。
ことばの多様性は、文化の多様性によるものだと、あらためて気づかされるのだ。

多様性をもつ”ことば”であるが、果たして言語と認識の間にどのような関係があるのか?人の思考は言語と切り離すことができないのか?言語は翻訳不可能なのか?といった疑問に、本書は斬り込んでいきます。

まず、色に関する知覚とことばの対応実験から分かったことは、
”ことばを持たないと、実在するモノの実態を知覚できなくなるのではなく、ことばがあると、モノの認識をことばのカテゴリーのほうに引っ張る、あるいは歪ませてしまうということがこの実験からわかったのである。”
色に関する表現が異なる文化に属していても、色の知覚は同等であるが、”ことば”によりその知覚を歪ませてしまうという結果が得られたのである。
また、位置や方向に関する表現と実際の認識にも差があることがわかった。位置関係を相対的に認識しているのか、絶対的な方角(空間座標)をベースに認識しているのかで”ことば”に対する認識が異なるのだ。これは空間認識の能力の差にもつながる。

”ことば”というのは、
”物理的には連続的な、境界のない知覚世界に対して、言語は境界をつくり出し、実際には存在しないカテゴリーをつくり出すのだ。”
となる。”ことば”により、世界が分断されていくのだ。
ただ、これは抽象化を推し進める武器となる。
本著では、こう述べられている。
”数の一つひとつに対応することばがあるという、そのこと自体が数という抽象的な概念の認識に大きな影響を及ぼしている。”
そして、
”言語は、人間以外の動物にはできない抽象的な思考を人間の子どもがすることを可能にする。”
その反面、
”言語を使えるようになったことで、ヒトが、本来持っていた絶対的な方向定位能力を退化させてしまったのかもしれない。”
としている。

言語により”抽象的な関係のカテゴリーを自由自在につくることを可能”にしたことは、人間の思考を発展させるためには大きく貢献したはずだ。これにより、推論することの能力を獲得し、推論することによって、ここに存在しないものや、今の時点に存在しないものも思考することができることとなったのではないでしょうか。

ただ、ちょっと気になるのは、音声によることばは、連続性(ことばの発声の長短や抑揚)を保てるが、テキスト化されたことばは、全く連続性を保てなくなる。その代わりに抽象化がさらに進み、抽象的な思考を推し進めることができるようになった。ここには、相反することがある。音声によることばの微妙なニュアンスは、テキスト化により完全に失われてしまうのだ。

さて、”言語のない認識、言語のない思考”はありえるのだろうか?これは究極の問で、言語がなかったら人間はこの世の中をどのように認識し、思考するのだろうか?そもそも思考することができるのだろうか?
おそらく認識はできる。本著ではことばをもたない赤ちゃんの実験例が紹介されている。
赤ちゃんのモノの認識実験結果だ。”赤ちゃんは動きの時間・空間の軌跡が連続しているのかそうでないかによって”、同じ個体なのか違う個体なのかを区別している。
このことからも、赤ちゃんもビジュアル的にものごとを認識していることは確かだ。ただ、それが思考につながるかどうかは疑問だ。言語が無い限り、思考することは難しい。単純なことである。今の自分から言語を無くして物事を考えられますか、と問いかければ自ずと分かるであろう。
”ことば”と人間の認識と思考は直結している。”ことば”には魔力が存在しているのだ。
本著では、”言語は私たちの認識に無意識に侵入してくるのである。”と書いている。これは、人間の認識と思考が”ことば”によてなされるので、常に無意識下でも知覚された事象が言語と紐付けされるからだ。
人類はことばを獲得したことにより、抽象的な思考もできるようになった。ただ、ことばの呪縛から逃れられなくなったのである。