キュレーションの時代、そして情報の連鎖。

佐々木俊尚さんの”キュレーションの時代ー「つながり」の情報革命が始まる”を読みました。好著です。

本書で言いたいことは、この表題に集約されているのですが、本著の中で紹介されているキュレーターによって発掘された人々や文化の紹介がこれまた面白く、極めて興味を引きつけられ、知的興奮へといざなってくれます。
また、論点は多岐に渡り、佐々木氏自身がすぐれたキュレーターであることの証ともなっています。(本書は、”キュレーションの時代”というメッセージ以外に、今、佐々木氏が語りたいことがぎゅうぎゅう詰めになっている本です。)
本著で取り上げられた人々は、
ジョゼフ・ヨアキム(ネイティブインデアンの血を継ぐ画家。70歳を過ぎてから絵を始めたそうです。このパワーには頭が下がると同時に、人間の想像性は歳をとっても枯渇することがないのだな、と感じました。おいらも歳をとっても元気でありたいものです。)、エグベルト・ジスモンチ(ブラジルのギターの名手です。女性プロモータの田村さんがジスモンチの日本講演までにこぎつけるまでにとったマーケティング手法が紹介されています。”「圏域は小さいけれども、情報流通は濃密」というコミュニティの関係性は、インターネットと高い親和性を持つ”ことをうまく利用しています。)田中眼鏡本舗(田中さんのめがねが気に入ってしまうのは、”物語につながるための消費”が存在しているからです。)、月明飛錫(ブログです。この方のブログは確かにいいです。凛とした雰囲気を感じさせてくれます。)、シャガールアバンギャルドとの接点(これが、コンテキストの力です。”シャガールというコンテンツから既存のパッケージを引き剥がし、そこに新たなコンテキストを付与する。”ことによって新たな視座を提示します。)、矢島孝一さんの作品(普通の人にはゴミとしか見えないものを集め芸術作品に仕上げます。人間の価値観の多様性を示してくれます。)、へンリー・ダーガー(人間の想像力の凄まじさを示してくれます。)、アロイーズ・コルパス(女性のアウトサイダー・アーティスト。)、田中悠紀さんの「茶太郎」(同じくアウトサイダー・アーティスト)、etc etc。
と多岐に渡っています。そして、キュレーターとの出会いが、ドラマチックに描かれています。
上に掲げた方々で、おいらが知っていたのは、シャガール位です。それもアバンギャルドと接点があるなんて、全く知りませんでした。
さらに、本著では、重要なキーワードが掲げられています。
重要なキーワードとは、”視座”、”ゆらぎ”、”記号消費の終焉”、”プラットフォーム”です。
”視座”の重要性の例として、フォースクウェアのチェックイン機能をあげています。”視座”とは、多々ある情報のなかから、フィルタリングされた情報を提供してくれることです。キュレーターもこの”視座”を提供してくれます。この本自体も著者である佐々木さんの”視座”を通して語られているわけです。ちょっと面白いアプリを思いつきました。有名な政治家の”視座”によって世の中が見えるARメガネです。もしかしたら世の中すべてが”金”にみえているかもしれませんね。とまあ、これはパロディアプリですが、特定のキュレーターの”視座”を提供するアプリは、いいかもしれませんね。キュレータARメガネなんてどうでしょうか。
”ゆらぎ”もこの”視座”と関係しますが、”ゆらぎ”によって、セレンディピティ(何かを探しているときに、探しているものとは別の価値あるものを見つける能力)を得ることができます。例えば従来の検索は、特定のキーワードにより、そのキーワードが存在する情報しか抽出できません。まったく”ゆらぎ”がありません。検索者の探している情報がヒットすればOKなのですが、そこからは新しい視点というものが発生しません。著者はこの”ゆらぎ”の重要性を指摘しています。本文では、”人と人との間の差異が、情報の集め方にゆらぎを生じさせる。”と書いています。”視座”もこの”ゆらぎ”を発生させてくれます。別の人の視点から物事を見るということになるからです。
意外とTVもこの”ゆらぎ”を与えてくれます。TVは結構無目的に見ているのと、放送される内容も多くの”視座”から提供されているので、意外と新しい発見や情報に巡り会える場合があります。
本著では、消費論も展開されています。そのキーワードが、”記号消費の終焉”です。
HMVの渋谷店閉店によせた関係者の言葉が紹介されています。「結局は、人なんだよ」という言葉が紹介されいます。これは、キュレーターは人でしかできない、ことを語っています。画一化した記号の供給と消費は終焉したのです。田中眼鏡本舗に著者が惹かれる理由も、それが”物語につながるための消費”であり、”記号”を消費しているからではなく、その眼鏡自体の機能にもひかれますが、そこには”人とのつながり”を消費している行為が存在しているのです。
これから訪れる消費社会を、著者は以下のように総括しています。
”マスメディアの衰退とともに記号消費は消滅していき、二十一世紀は「機能消費」と「つながり消費」に二分された新しい世界が幕を開ける。商品の消費から、「行為」や「場」の消費へ。モノから、何かをする「コト」へ”移行すると明言しています。これは、シェアする潮流を明確に言い切っています。
さて最後は”プラットフォーム”です。ソーシャルメディアについては、新たなるヒエラルキーが登場していると書いています。超巨大プラットフォーム、中規模モジュール、小規模モジュールの階層構造が発生ているとまとめています。それぞれ、次のような内容です。
超巨大プラットフォーム。これは億単位の利用者のソーシャルグラフをもつFacebookTwitterです。中規模モジュール。これは、超巨大プラットフォームのソーシャルグラフを再利用し、特化したサービスを提供するフォースクウェアグルーポンやピクです。小規模モジュール。これは、超巨大プラットフォームを使いやすくするアプリや解析するツーや簡単に利用できるツールの提供といったスモールビジネス群をさしています。なるほど、今のソーシャルメディアの階層構造がすっきり理解できますね。
本著では、モンゴル帝国を”プラットフォーム”としてみています。モンゴル帝国は、帝国繁栄のためのエコシステムを構築しました。
まず、本著では、プラットフォームを次のように定義しています。
1. 圧倒的な市場支配力を持っている
2. 非常に使いやすいインターフェイスを実現している
3. プレーヤーたちに自由に活動させる許容力がある
一方、モンゴル帝国はどうであったかというと、
1.圧倒的な軍事力でユーラシア大陸のほとんどを支配した
2.大型間接税と代用通貨による利便性の高い通商システムをつくった
3.文化や宗教、言語への不干渉主義をつらぬき、各民族が独自の文化を発展させた
と対比させて、モンゴル帝国を”プラットフォーム”とみなしています。この考察はユニークですね。”プラットフォーム”とは何かを定義する上で、わかり易い判定基準です。
そして、著者はこの”プラットフォーム”に大きな可能性を感じ取っています。本文から抜き出してみます。
”多様性を許容するプラットフォームが確立していけば、私たちの文化は多様性をもったまま、他の文化と融合して新しい文化を生み出すことができる。その世界で新たなまだ見ぬ文化は、キュレーションによってつねに再発見されていく。”と書いています。この世界観には同感です。多様性の許容と多様性への尊敬の念が、これからの時代重要になっていくのです。インターネットは世界を繋ぎ、情報流通のグローバル化、情報の均一化が進みますが、それは画一的な世界を目指すものではなく、世界の様々な地域に住む人々(生物も含めて)その存在していることの価値を見つめ直すことにあります。

またまた、かなり長文になってしまいました。これでも書き足りないくらいですし、本著にはもっともっと多くのメッセージを読み取ることができます。
この本は、佐々木氏が語りたいことがぎゅうぎゅう詰めになっています。是非一読をオススメします。
表題にもしましたが、いい本とは、読んだ後に多くの情報の連鎖を提供してくれます。本著は、まさにそのような本です。