ウィキリークスとはいったい何か?

”日本人が知らないウィキリークス”を読む。

日本人が知らないウィキリークス (新書y)

日本人が知らないウィキリークス (新書y)

ウィキリークスとはいったい何なのか?ウィキリークスが今に持つ意味とは何なのか?といった疑問に本著は答えてくれる。
7名の論客(小林恭子白井聡、塚越健司、津田大介、八田昌行、浜野喬士、孫崎亮)が、ウィキリークスの姿に迫る。

7名の方が、各専門分野の異なった視点から各章を書かれていますが、本書を読み通すと、”透明性”、”個人の力の拡大”、”国家とは何か”といったメッセージが伝わてきます。
そのベースにインターネットが存在しています。インターネットの時代は、”情報”というものが、瞬時に全世界の人々に伝搬していきます。国家、国境といった壁を乗り越えて伝わっていくのです。世界の人々は、情報といった絆によって結ばれていくのです。

さて、以下各章をおって感想を述べます。
第一章 ウィキリークスとは何か
ウィキリークスとは何か?という問に対して分り易いのは、この章で引用されるているウィキリークスのHPに記載されている活動方針である。活動方針は、以下のように記されている。
「あらゆる地域の政府、企業の非倫理的な行為を暴こうと望むすべての人々の役に立つ」そして、「出版活動により透明性が増し、この透明性が全ての人々にとってより良い社会を創造する。より精密な調査が不正を減らし、政府や企業その他の団体を含む、全ての社会的組織における民主主義を強化する」
ここで注目すべきことは、ウィキリークスが透明性を求めていることだ。この透明性ということが、インターネット時代のキーワードとして思えてならない。この透明性という言葉から想起されるのは、あのFacebookもしかりだということだ。Facebook実名主義という透明性を基軸としている。
また、現代における意味として、”一度インターネットに掲載された情報は実質的に消去不可能であるということが改めて確認された点”であるということも重要だ。インターネット上に流出した情報は、いかなる手段をもってしても消し去ることはできない。
この特性を逆手に取って、アサンジ氏は身の危険を守るために、情報を人質としたのだ。
但し、ウィキリークスの評価は分かれる。それは、”論者の立場によってウィキリークスは善にも悪にもなり得る。”からだ。

第二章 ウィキリークス時代のジャーナリズム
この章では、『ジャーナリズムの原則』10項目が書かれているので引用する。
1 ジャーナリズムの最初の義務は真実である
2 最初の忠誠の対象は市民である
3 その本質は検証の規律である
4 ジャーナリズムに従事する者は取材対象から独立を維持すべきである
5 ジャーナリズムは権力の独立した監視者であるべきである
6 公的な批評と歩み寄りのための場を提供すべきである
7 重要な事柄を興味深く、関連性を持たせて報じるよう努めるべきである
8 ニュースを包括的に、バランスが取れているように報じるべきである
9 ジャーナリズムに従事する者はそれぞれの良心に従うことが許されるべきである
10 (情報の受け手となる)市民には権利と責務がある

この10項目に照らし合わせると、ウィキリークスが厳密なジャーナリズムとはいいがたい。
ただ、本章でも述べられているが、”メディア環境が大きく変化する中で、そもそに「ジャーナリズムとは何か」という定義さえ一定していない”中で、ウィキリークスがジャーナリズムではないと言い切れない。
また、独立性という観点からすると、”つまり無国籍のウィキリークスは、特定の国の「国益を度外視して情報を公表できる」存在である”ので、非常にジャーナリズム的でもある。
本章では、ジャーナリズムが”分散、「モジュール化」”していると述べている。
”「各モジュールはそれぞれの構造や価値観に基づいて独自のやり方で情報をフィルタリングする」”としている。ウィキリークスもこの”モジュール”一つなのである。

第三章 「ウィキリークス以後」のメディアの10年に向けて
この章では、ウィキリークスを”従来マスメディアが担っていた重要な「機能」をネットの技術や方法論を利用して代替している存在”と言っている。この考えは、第四章の考えにも通じますね。
そして、「ウィキリークス以後」のジャーナリズムの形は何かというと、
”「ネットに流出したり話題となった情報をいち早くキャッチし、その情報を精査した上で、ソースを明示しながら、誰もがわかりやすい形に編集して伝える」”としている。
最後に、”「ウィキリークス以後」の10年をキーワードで語れば、「権力監視の分散化」と「メディアによる検証機能の再評価」ということになるだろう。”で締めくくられている。

第四章 ウィキリークスを支えた技術と思想
この章は、技術的観点が述べられおり、面白い。
そして、何故今の時代にウィキリークスが誕生しえたのか?それは、”ウィキリークスというプロジェクトの背後にある思想、それは、情報技術を駆使することで、国家や組織に対して相対的に弱い立場にある個人の力を強化することができるとうい思想である。”と書かれてあるように、情報技術が個人の力を組織や国家にも比肩する力としたからだ。
本章の最後は、”ウィキリークスは、すでに世界を変えてしまった。パンドラの箱はもう開いたのである。”で締めくくられている。ウィキリークスは、インターネットの力を世界に示したといえる。情報というものがもつ力を、世界に示したともいえます。

第五章 米公電暴露の衝撃と外交
この章は、次の一文に尽きる。
”そもそも公表できないことを裏で話し、それを基礎に成立するような外交成果は本当に望ましいものだったろうか。”
結局、外交とは国家という概念を前提としている。そもそも国家とは何なのでしょうか?現代において、国家という概念に囚われていてよいのでしょうか?

第六章 「正義はなされよ、世界は滅びよ」
この章では、カントの『永遠平和のために』をベースに論旨が展開されている。おいらが驚いたのは、カントってすごい理念の持ち主だったのですね。カントといえば、”純粋理性批判”とかで名を知られていますが、こんな”永遠平和のために”なんていう著作があるなんて知りませんでした。
本章に、永遠平和のための前提条件が書かれているので、引用してみます。
”国家の相続・交換・買収・贈与の禁止、常備軍全廃、戦争国債発行禁止、他国への暴力的干渉禁止、暗殺者・毒殺者雇用・降伏協定破棄等の禁止”それに加え、”「将来の戦争への材料という密かな留保を伴って締結された平和条約は、決して平和条約とみなされるべきではない」”としている。また、”公表性”も重要視している。行為が公表性と合致しないのならば、それは不正であるとしている。
本章では、”ウィキリークスも、自分たちの目指す「純粋公益」を、事実やデータによって証明するのではなく、その行為と勇気によって証明しているのではないか。”と評価している。
カントの理念が、現代において、インターネットを駆使して実現されつつあるのだ。
そして”いずれにせよ一旦作動し始めた絶対透明性と純粋民主主義のシステムは、その創設者といえども例外化してくれない。”のである。
本章の最後は次の文で締めくくられています。
ウィキリークスが揺れ動いているのはこの2つの解釈の可能性の間だ。「正義は行われよ、たとえ世界が滅びようとも」と「正義は行われよ、世界が滅びないように」である。”
この解釈のゆらぎは、今後の世界をどのうように構築していくのかと、自分たちにも突きつけられているように思えます。

第七章 主権の溶解の時代に
本章では、”ウィキリークスの事件は、大きな文脈で見るならば、この事件は主権国家の時代の終わりを示す兆候のひとつとして考察されるべきである。”とし、論旨が展開されていく。
そして”ウィキリークスは、カリフォルニア・イデオロギーが主張してきたことを「本当に」やってみせることによって、自らを生んだイデオロギーを内側から乗り越えたのだ。”と評価している。


長々となってしまいましたが、本著は、多くの方に読まれるべきですね。内容も濃く、素晴らしいです。