情報の文明学

梅棹忠夫氏の”情報の文明学”を読む。

情報の文明学 (中公文庫)

情報の文明学 (中公文庫)

この本に収録されている、”情報産業論”は、1962年(昭和37年)に発表され、”情報の文明学”と”情報の考現学”は1988年に発表されたものである。
”情報産業論”は今から50年前、”情報の文明学”と”情報の考現学”は今から20年前に発表されたものであるが、現在読んでも色あせていない。現在読んでも、得るところが大きいのには驚かされる。
梅棹氏は昨年(2010年)亡くなられているが、現在の情報化社会をみて、ほらほら私の言った通りではないか、と草葉の陰からきっとつぶやいているであろう。
基本的な考えは、”情報産業論”に集約されている。
”情報産業論”では、人類の産業史を三段階に分けている。農業の時代、工業の時代、精神産業(=情報産業)の時代の三段階である。この三段階を、人間の有機体としての機能の段階的発展になぞらえている。農業の時代は、消化器関係を中心とする内胚葉諸器官の機能充足の時代である。工業の時代は、筋肉を中心とする中胚葉器官の機能拡充の時代である。精神産業の時代は、脳神経や感覚器官である外胚葉器官の機能拡充の時代である。
本文中次のようにまとめている。”人類の産業史は、いわば有機体としての人間の諸機能の段階的拡充の歴史であり、生命の自己実現の過程であることがわかる。”
産業の発展は、人間の機能拡充の歴史なのである。
さて、情報の価格はどのよいうに決定されるのか。本論文では、”お布施の理論”を展開している。この観点はユニークであり、結構まとを得ている。要は、情報提供者側の格によって決定される、ということだ。
これは、現在にも通じるだろう。個人での情報発信も多くなってきているが、この場合でも格付けが発生する。例えば、多くの支持を得たブロガーの情報やFacebookのファンページや多くのフォロアーを集めたTwitterでのつぶやきが、価値のある情報と見なされるのだ。

”情報の文明学”では、情報の意味を追求している。
人間の行動に利益をもたらさない無意味な情報が多数ある。多くがこの無意味情報である。ノイズも情報の一種であり、感覚器官や脳神経系を興奮させる。無意味な情報にも、人間の感覚は反応しているのだ。
”情報はあまねく存在する。世界そのもが情報”なのである。
情報の堆積と拡散の発展は次のようだ。
音声言語→文字情報→印刷技術→電波
この発展により、人類はあまねく情報にさらされる事態となった。
工業産業の時代は、単なる過渡期に過ぎない。情報産業が、人類がたどり着く最終段階かもしれない、と述べている。
この論文発表から20年経過した現在は、まだ情報産業が花開くとば口である。現在は、まだ最終段階ではない。

”情報の考現学”では、社会を情報の観点から考証している。この”情報の考現学”もいろいろと考えさせられます。
鉄道も”人”といった情報を運ぶ。工業の時代には、原材料や製品を運搬することが主目的であったが、実は情報も運んでいるのだ。これが鉄道の隠された姿でもある。
味も情報である。農業も、ただ単に空腹を満たす産業ではなく、情報を与える産業なのだ。
情報の情報も存在する。ガイドブックやコメンテーターがそれである。
情報の経済価値とは、情報の独占から生まれる、と書いている。
情報の公開性と独占とに政府が介入し、情報に金銭的価値を生み出す。特許や免許、免状、著作権がそうだ。
ただ現在は、コピー機の発展により、情報産業成立の基盤の一角をみずからほりくずしている、とも述べているが、すべての情報を独占すべきなのかは、難しい問題だ。デジタル化によりコピーが容易になっている現在、この情報の独占は崩壊しつつある。情報を公開させることに価値をもたらすこともある。最近のウィキリークスがある。
ただ、だれも知らない情報が、意外と大きな価値を生み出すかもしれないが。(口伝や秘伝といったものがミステリアスであり、すごい価値が存在しているといった錯覚に陥る。公開されると、何だそんなことかと思ってしまうかもしれないが、”秘伝”は”秘伝”のままにしておくことに価値がある。公開されないことによる価値ですね。)

書籍は、工業製品としての価格と情報としての価格が融合してしまっている、と言及している。今の電子書籍時代の混乱の本質を突いている。
人びとは疑似体験をこえて、生体験をのぞんでいる、とも述べている。これは、今の音楽業界に例えれば、CDの売上だけではなく、コンサートやライブ活動に力をいれている。
情報のシャワーを浴びた結果、人間は生の体験に価値を見出していくだろう。現実のリアルなものには、勝つことができない。”世界遺産”も情報であるが、人々は情報のみでは飽きたらず、実際の世界遺産を体験するために出かけるのだ。

コンピュータの計算能力と膨大な情報の蓄積は、コンピュータが”時間”を超えたといってよい、と述べているが、逆説的な問題を提示している。コンピュータの入力には時間がかかる。コンピュータから出力される情報の解読には時間がかかる。言語を主体とする人間の知的生産にどれほどの革命をもたらしてくれるのか、と問題を提起している。
現在では、この問題も徐々に克服されているだろう。
Appleが提供するデバイスGoogleの検索技術や音声認識技術、それにEvernoteの体験に触れたら、著者がどう思ったか聞きたかったですね。

さて、これからの情報化社会はどの方向に向かうのか。ネットワーク化されるのは当然の結果だ。おそらく多くの機器(住宅、家電、車、鉄道、etc)がネットワークされ効率化へと向かう。そして人々の意識もネットワーク化されるだろう。地球全体が脳化する。
”情報はあまねく存在する。世界そのもが情報”とすれば、人間のみではなく、自然や他の生物も情報のネットワークに組み込まれるのかもしれない。人間が、自然や他の生物とコミュニケーションする時代が到来するかもしれない。