”『七人の侍」と現代”と黒澤映画のことなど。

今年は黒澤明生誕100年ということで、黒澤明関係の本が多く刊行された。直近では四方田犬彦氏が岩波文庫から”「七人の侍」と現代”と題し、黒澤作品の”七人の侍”の再考を試みている。

『七人の侍』と現代――黒澤明 再考 (岩波新書)

『七人の侍』と現代――黒澤明 再考 (岩波新書)

七人の侍”公開されて、50年以上が経つが、世界では今も”七人の侍”が上映されており、その国において”現代”的意味合いをもって、迎えられている。日本人にとっては、”過去”の作品であるが、世界のある国にとっては”現在”の作品なのである。
おいらが、映画館で初めて黒澤作品を観たのは”影武者”であった。当時これを観た際には、それほど面白みを覚えた記憶がない。ただ、その後旧作品を池袋文芸座や銀座の並木座で観て、黒澤明作品の世界に圧倒された。確か”用心棒”と”椿三十郎”は新宿の武蔵野館で観たのであるが、旧来の”時代劇”という概念を吹っ飛ばされ、抜群に面白かった記憶がある。”野良犬”の最後のシーンも忘れられない。追われる遊佐と追う刑事(三船)。最後に二人は力つきて泥まみれになり草地の中に倒れ込む。二人は泥まみれであり、どっちが遊佐でどっちが刑事であるか分からない。倒れたまま、息つく二人。朝学校に通う子供たちの歌う童謡が、二人の耳に流れてくる。それを聞いて慟哭する遊佐。このシーンは、象徴的だ。人間は生まれた時は誰でも同じであるが、生きて行く限り善と悪を身につける。”善”の象徴が刑事であり、”悪”の象徴が遊佐である。しかし、”童謡”を聞くことによって遊佐の心は生まれたばかりの自分へ戻ったのだ。純粋な自分の姿を思い出し、遊佐は慟哭したのだ。
”天国と地獄”の綿密な構成から醸し出されるサスペンス。この作品を魅力的なものとしているのは、自分の子供の代わりに別の子供が誘拐され、身代金を払うかどうかの状況に追い込まれる権藤の姿だ。他人の為に身代金を払うといった不条理を、権藤がいかに切り抜けていくかのドラマでもある。

さて、ちよっと長くなったので本題に戻ります。”「七人の侍」と現代”の第一章では、その現代的な意味が語られる。最後に、”戦乱と強奪が続くかぎり、黒澤映画は世界中で必要とされているのだ。”と結ばれる。これは、”七人の侍”が、”外敵から身を守るために団結している農民たちと農民たちの見方となった侍”とい図式が、ずばり紛争地帯の構図とぴったりと当てはまるからだ。そして、”七人の侍”の構図が、世界の他の作品に与えた影響を第二章で語っていくことになる。第三章以降は、作品の深堀と当時の社会状況を踏まえた公開当時の評価が解説されている。
七人の侍”で特異な存在は、この著書でも一章分を割いて書かれている”菊千代”であろう。”菊千代”とは、一種のトリックスターであり、侍たちと百姓たちを繋ぐ、媒介役なのだ。表面は侍ぶっているが、根は百姓の魂なのである。最も感動的なシーンが、菊千代に与えられている。村の水車小屋が焼き討ちされ、母親と赤子を救い出そうと果敢に火の中に飛ぶ込む菊千代。赤子を救い出したあと、燃え盛る水車小屋をバックに、両腕に抱えた赤子を見て菊千代が叫ぶ。”こいつは俺だ!”この一言で、菊千代の全てが語られるのだ。このシーンは何度観ても涙してしまう。
第四章で七人の侍の構想と制作が書かれているが、七人の侍のシナリオ誕生までは、橋本忍氏の”複眼の映像”が詳しい。

私と黒澤明 複眼の映像 (文春文庫)

私と黒澤明 複眼の映像 (文春文庫)

こちらも黒澤作品誕生までの秘話がかかれており、抜群に面白い。この本を読むと、シナリオがいかに重要であるかがわかる。この本の中で、”ある侍の一日”(七人の侍誕生に至るための最初の構想作品)のストーリとこのシナリオが日の目をみなかった理由が語られているが、歴史的事実(当時の侍は昼食を食べなかった。)に反することでボツになたのは、実に惜しい。映画で観たかった。
黒澤明の苦悩を語る作品として、田草川弘氏の”黒澤明 vs. ハリウッド”が面白い。この本でも、”トラ・トラ・トラ”のシナリオと黒澤明が思い描いていたストーリが紹介されている。これを読むと、黒澤版で是非とも映画が観たかったとつくづく感じるのだ。