日本辺境論

"日本辺境論”の紹介です。内田樹氏の著作です。

日本辺境論 (新潮新書)

日本辺境論 (新潮新書)

今回は、題名の通り日本人論に迫っています。本書中にも書かれていますが、日本人ほど日本人論を読み続ける民族はいなそうです。確かにそうですね。結局”国の始まり”というものがどこなのか、そして”日本人”は、いつから”日本人”となったのかが、歴史的、地理的な要因も含め、非常に不明瞭であるがために、多くの日本人論が書かれてきたのでしょう。本書は、それに全て答えてくれている訳ではないのですが、”日本人とは何なのか”といった疑問に対して、エッセンスを示してくれます。本書では、まず、日本人は辺境人であることが、過去の周辺諸国との関係から解き明かされます。そして、辺境人であることが、日本人の思想に染み付いているので、それがいいにしろ悪いしろじたばたせずに辺境であることを認識し受け入れることから始まります。そして、ちょっとした開き直りですが、”辺境人でいこう!”と、言い切ってしまうのです。
辺境人との認識に立った瞬間、待てよ、辺境人って以外といい面もあるよね、といった発見に至ります。本書では、それが”学び”の優位性をもたらし、日本人独特の”機”の創造につながり、ひいては日本語の素晴らしさへと発展していきます。日本は辺境であるがゆえに、世界に類を見ない独特の文化を生み出してきたのです。
”辺境人の「学び」は効率がいい”の章では、”学び”の重要性についても語られています。本文中に書かれている、”太公望の武略奥義の伝授”についてのエピードは、”学ぶ”ことの本質を突いています。”秘伝”の伝授とは、テクニカルなものではなく、その”ものの考え方”にあります。”考える”ことの姿勢にあるのです。この章では、子弟論的なことも語られており面白いです。逆説的な子弟論が展開されています。それに、”水戸黄門”についても語られており、日本人の権力意識構造にも迫っています。
最後の章では、”日本語”の素晴らしさが語られています。日本語論としても秀逸です。日本語は、”表意文字”と”表音文字”で構成されており、図象と音声を同時処理する言語である。ただ、これは世界中を見回しても、きわめて例外的な言語状況である。そしてそれが、日本のまんが文化を育成したのです。日本人は、まんがの”絵”と”ふきだし”を並列処理できるがゆえに、まんがのヘビー・ユーザになれたのだ、と。
この章で、日本語に近い構造をもつ、ユダヤ人が使うヘブライ語のエピソードが語られています。その中で、神殿の中で、祭司長のみが唱えることができる”言葉”があり、ただそれは神殿破壊により伝承が失われ、今ではどのように発音すべきか分からない”言葉”があるそうです。この”言葉”をどのように発音すべきかの論議が続いており、発音が不明な”言葉”についての知の体系作りが、今もなされているのです。この箇所を読んだとき、何か、非常にミステリアスな創造に駆り立てられました。”言葉”って非常にミステリアスです。
そしてそういうことだったのかと、一番うなったのは、紀貫之が書いた土佐日記の重要性です。残念ながら土佐日記を読んだことはありませんし、教科書的な理解しかありませんでした。日本史上初めての日記だとか、初めてかなで書かれた文学だとかといった理解のみでした。しかし、著者はもっと深い重要性を指摘しています。かな混じりの表現が、日本人にとって意味を広く伝える最大の武器となったことです。ここから日本語が生まれたという、非常にエポックメーキングな出来事だったのです。それを考えると、紀貫之ってすごいなー、と感心しました。
著者は言います。日本語の様なハイブリッド言語は、他国にない、と。漢字とひらがなの組み合わせにより、漢字が与えるイメージや意味が非常に強調されます。中国語は、全て表意も表音も漢字です。日本人であれば、漢字が読めるのでおおよそ何を伝えたいのか理解できますが、表音も漢字なので、表意の箇所が全体を覆い尽くす漢字に埋もれてしまい、”漢字”が伝えたい意味が薄められてしまいます。
日本語というのは、素晴らしい言語なのですね。