新聞消滅大国アメリカ

”新聞消滅大国アメリカ”とは、何とも凄まじ題名だ。
新聞社がどんどん倒産しているアメリカの現状と、それを打開すべく模索している新しい新聞の形態を紹介している。

新聞消滅大国アメリカ (幻冬舎新書)

新聞消滅大国アメリカ (幻冬舎新書)

ところで、おいらも新聞はとっていない。新聞をとらない生活は、ここ5年間ほど続いている。それっで困ったことがあったか?実感としてない。ニュース源は、TVのニュースとインターネットの各種関連サイトから発信されてる情報で、十分だ。それも多すぎて逆に閲覧するサイトは絞らざるをえない状況だ。一般紙のサイトも、最初のころは観ていたが、いまではほとんど観ていない。
新聞をとっていた頃は、何を読んでいたかというと、まずTV番組欄。次に広告欄、それに折り込みの広告だ。そして、週に一回掲載される読書欄が主であった。それ以外は、ぱっと目を通すが、熟読した記憶はあまりない。逆に、広告欄の方が、面白い印象があった。
朝夕刊をとっていたが、夕刊のありがたさを感じたことは一度もない。夜のニュース番組の方が速報性があり、便利だ。
購読料も4000円近く、なんともばからしくなり、新聞をとるのを止めてしまった。
たぶん、おいらと同じように、インターネットを利用している人の多くは、新聞をとっていないであろう。
さて、そのような新聞をどのようにして救っていけるのか?
アメリカと日本の新聞事情は異なるとはいえ、新聞というものは何なのか?をもう一度じっくりと考える必要があろう。

新聞の使命とは、何か?ジャーナリズムとは何か?これは、著書の中でも記されているが、”社会正義の監視役”である。ただこれは、新聞だから、そして新聞のみができるのだ、といったことではない。インターネットの数々のブログやTwitterでも実現可能だ。ただそれが、個人ではなく、組織された”会社”として継続してできるかどうかに過ぎない。ジャーナリズムは、いままでの”新聞”の形態に、すがっている必要はない。

何故、”新聞”という形態が必要なのか?新興国では、新聞の購読はのびている。要は、情報をあまねく伝達する手段として、入手できる情報量を含めて、どのようなメディア伝達形態がその国その地域にとって、一番コスト的に見合っているかとういことだろう。
インターネットの時代(インターネットが普及している国や地域)では、紙媒体よりもデジタル媒体(ビット化された情報)の方がコスト的に優位だ。
インターネット時代のビジネスモデルは、何か?いまや、情報はフリー(無料)に近い訳であるから、当然それを補完する資金源がないと駄目だ。その資金源の最もたるものが広告であることは間違いない。NPO形式による寄付での運営でもいいかもしれないが、すべてそれで賄うことができるとは思えない。”広告”をうまく活用するしかないのだ。それか、提供する情報よりも、かなり安価にみえる課金しかない。

これからの”新聞”とは何か?”新聞”を越えた(従来の”新聞”がネックとしてきたものを取り込めるような、”新聞”)、ニュースメディアが必要なのではいか?

そして、”紙”でなくてはいけない理由は何なのだ。軽い、必要な箇所はちぎってとっておく。折り畳める。記事全体が、一望できる。いろんな情報が一望できる。手軽に入手できる。等々あるが、人々が欲している”新聞”とは、それが全てなのだろうか。
インターネットの特異性を有効に取り込んだ、ニュースサイトができるはずだ。インターネットであれば、多数のメディアに対応可能であるし、記事情報は蓄積される。過去の記事はいつでも検索、閲覧が可能だ。関連した記事を、過去にさかのぼり、深堀していくこともできる。”紙”は容易に検索できない。紙の場合、蓄積には、”場所”が必要だし、経年変化の対応策も必要だ。それに比べ、デジタル情報は劣化しない。
読者のコメントも随時掲載可能だし、インターラクティブ性を生かした紙面(画面)も作成可能だ。
紙でない媒体を意識してこそ、新しい”新聞”の形があるのではないか。ジャーナリズムの精神がある限り、”紙”にこだわる必要はない。