グーグル秘録

”グーグル秘録”なんとも凄い題名だ。

グーグル秘録

グーグル秘録

原著の題名は”GOOGLED The end of world as we know it"である。われわれが知る世界の終わり。Google化された世界、とでもいうのだろうか。著者のKen Auletta氏は、かの”ニューヨーカ”の記者である。多くのグーグル関係者とグーグルを取り巻くメディア産業の多くの関係者とのインタビューをもとに本著作は構成されている。Googleを単に讃歌することもなく、今のGoogleの成長とそれを取り巻くメディア産業の問題点を浮き彫りしている。
それにしても"Googled"とは、いい題名だ。"Google"という一企業の名前が、一つの文化になっていることを象徴している。この"Google"とうい言葉は、”Internet"と置き換えてもいいであろう。”Google"とは完全な"Internet"の申し子であるからだ。"Google"こそが、"Internet”そのもの、それ自身を体現している。その可能性と問題を自らの行動として体現しているからだ。過去の規制や既得権益などもおかまいなしに、"Internet"の可能性をそのまま実行しているのである。
それでは、Googleの弱点は、どこにあるのか。著書の中でも繰り返されているが、感性の欠如と社会との関わりの希薄さである。一方的な”共通な価値観”の浸透を推し進めるが故、そこに世界(人々、政府)との衝突を惹起させるのである。
Googleの強みは、何か。まず、創業者のぶれない信念だ。信念を支えるのは、他社に負けない検索技術だ。そして、ユーザへの情報提供の効率化を最大目標としている。(非常にシンプルな理念である。)

以下著作全般を通した、おいらの感想と意見を書いていく。


Googleビッグバンクの原点
おいらが、この本を手に取った最大の動機は、Googleがこれほどまでに発展したトリガーポイントは、どこだったのかを見極めたかったからだ。この本を読む限り、それは偶然の産物だったと書かれている。
本文中の表現を借りると、”「おそらく綿密な計画の結果ではく、偶然だった。」往々にして、成功を左右するのは賢明な戦略ではなく傑出した行動でもなく、タイミングやひらめき、ツキといったものだ。”と記されているし、シュミット氏のインタビューからも、”シュミットは、創業者たちが広告を”優先的に取り組むべき課題”とは考えていなかった。シュミットも同じだった。”とある。ただ他の幹部は、利益をあげる為に広告収入に頼ることを模索していた。そして”アドワーズアドセンスは、グーグルがどのようにして検索エンジンから利益を上げるかとうい難題を遂に解決した。”のである。また、”2002年は、グーグルが「自らが広告業であると気付いた年」でもあった。”のである。
おいらが考えるに、時代の流れのなかで、Googleでなくても、Googleに相当した企業が現れたのであろう。ちょうど、生物も進化が無数の試行から最終的に生き延びる形態に達するように、インターネットの進化の中で、無数の起業家達がインターネットの進むべき道を模索し、その中で、"Google"が出現したのである。


Googleの弱点
今IT産業の中で、最も注目を集めるGoogleであるが、Googleの弱点はどこにあるのだろうか。
文中で繰り返されるが、Googleはエンジニア至上主義である。(おいらもエンジニアの端くれであり、この言葉に悪い気持ちはしない。が・・・)そして、あらゆることに、無駄を省こうとするのが、Googleの信条でもある。但し人間の行動には、感性がある。人間の行動は、論理のみではなく、”感性”とういものでも動いているからだ。Googleの唯一の弱点は、この”感性”を理解しているかどうかである。Googleの行動から受ける印象は、この感性の欠如である。Googleが、感性を感じとる企業になっら最強の企業になるかも知れない。まだGoogleは若く、この感性を磨ききれていないのかもしれない。ちょうど、Googleとは、創業者二人の成長物語であるのかもしれない。


◎伝統的メディアとの衝突
突き進むGoogleの前に、最初に立ちはだかったのが”伝統的メディア”であった。
Googleの論理的出発点は"伝統メディアのやり方は、たいてい非効率的だからだ、だから変革しなければならない。"である。しかしながら、感性(この場合は質)は効率化することはできない。ここに大きな溝が生まれる。例えば、ペイジランクが上位にあるニュースが、人々に影響を与えるニュースとは限らない。
その様な状況の中で、二人の若いジャーナリストが製作した架空のドキュメンタリー『エピック2014』と題する映像がネット上に公開された。これは、2004年に作成されたもので、ビデオの中では、2005年以降が想像の物語となっている。2008年にGooglezonが誕生。そうGoogleAmazonが合併。2010年には、ニュースの自動生成アルゴリズムが完成。個人向けにニュース記事を自動生成配信する。2011年NYタイムズは、これを著作権違法で訴えるが、敗訴。2014年GooglezonはEPIC(Evolving Personalized Information Construct:進化型パーソナライズ情報構築網)を公開。そしてNYタイムズは、これに抵抗すべくオフラインとなり、エリート向けと高齢者向けの紙媒体のみを提供することとなった。(ビデオのストーリ解説は、こちらが詳しい。)


この映像は、Google社員に衝撃を与えた。ユーザにとって最善の行為をしてきたはずが、全く異なった観点で捉えられていたからだ。


◎越えなければならない壁
そしてGoogleが発展する上で、すなわちインターネットが発展する上で解決しなければならない最も大きな壁は、プライバシーの問題である。
インターネット文化において、プライバシーの問題をどう扱うかが最大の課題だ。より良いサービスを提供する為には、個人の行動情報に立ち入らざるを得ない。さてそれでは、”プライバシー”とは何か。どこからどこまでがプライバシーで、何と何が守られるべき情報なのか?プライバシーとは、個人を特定すること、または個人の特定した嗜好をいうのか?個人を特定されことの問題とは何か?全てがオープンにされたときの問題点は?プライバシーがオープンになって、誰もが知っている通常の情報となってしまえばいいのでは?プライバシーとは、明かされることによって社会的に表現されていた自分が、従来の社会的判断から逸脱するかもしれないという恐怖なのか?うーーん。プライバシーとは何か?非常に難しテーマである。
文中では、”新たなテクノロジーは、様々な方法でサービスの質を高めて行く。だだ同時に、それがプライバシーの定義を静かに変えて行くことは間違いない。”と書かれているし、さらに”グーグルはプライバシーや著作権に関する既成概念を、変えようとしているんじゃないか?”とも書いている。
インターネットが発展・浸透して行く中で、プライバシーや著作権とは何なのかを、再定義して行く必要があろう。


◎これからの世界
Googleそしてインターネットの世界はどこに向かうのか?
Googleが目指すのは”ベンダーに依存しないソフトウェ・アソリューション”であり”グーグルのサービスはすべて、ウェッブというプラットフォーム上で動く。”ことだ。また、”グーグルの世界観の中で優れたツールと見なされるのは、消費者の手間を省きながら”世界の情報”を届けるような製品だ。”とメイヤーに言わしめている。
伝統的メディアとの衝突は、完全に解決していないが、”新たなメディアでは、コンテンツがある場所に視聴者を連れて行くことではなく、視聴者のいるところにコンテンツを届けることが重要だ。”という、ユーザにとってのメディアとは何かを、根本に立ち返って再考する必要があるだろう。”視聴者のいる場所”とは、リビングのTV以外にもいたるところに存在する。モバイル端末にも当然存在する。公共の場にも存在する。
Googleは今、SNSを気にしはじめている。Facebookは今や4億人以上のユーザ数を獲得(2010年2月時点)しているし、アクセスも2010年3月には、米国内でGoogleのそれを上回った。ただ本文中にも書かれているが、目指す方向が異なるので、SNSは一つの形態と捉えれば良いのではないか。SNSが全てではない。次に書かれている様に、オープンなのかクローズなのかの違いである。”グーグルのビジネスモデルは、ユーザをなるべく早く自社サイトから目的地へ送り出すこと、そしてインターネットの空間を基本的なプラットフォームとして使うことを基本としている。一方、フェイスブックをはじめとするSNSは、ユーザを自社サイトにつなぎとめ、彼らのネット生活の中心、ひいてはネット上の自宅になろうとしているのだ。”
ただ、Googleの検索ビジネスが発展するためには、プルではなくプッシュの要因も必要であると説いている。”人は情報を社会との関わりの中で消費している。だから検索サービスは、人間同士のつながりといった社会的関係にうまくつながる必要がある。”とうわけだ。
本著書の最後は”メディアの地平をこれほど急激に揺るがした企業はほかにない。”で終わる。
膨大な情報流通するインターネットの時代をどう生きるのか。著者が文中にオーウェルの『1984』とハックスリーの『すばらしい新世界』を引き合いにして説いている。
"オーウェルは我々から情報を奪う者を恐れた。ハックスリーはあまりにも多くの情報を与えることで、我々を受動的で自己中心的にしてしまう者を恐れた。"と。
このインターネットの時代を生き抜くためには、情報の単なる消費ではなく、流通する情報を自分を通してきちんと理解し判断することであろう。インターネットの膨大な情報流通網に、個人がきちんと対峙することによって、インターネットの未来がある、とおいらは考えている。